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ブログ
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バッハの祝祭曲
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コラール 歌詞の起源
コラール 歌詞の起源
A.シュヴァイツアー「コラール歌詞の起源」は、BachCantata Website(バッハ カンタータ ウェブサイト)」
に掲載されたA.シュヴァイツアーの論文(1908)です。キリスト教の初期から
バッハの時代まで、讃美歌の歌詞の歴史を記したものです。ドイツ語で書かれたものを
Google翻訳を利用して、私の理解のために要約したものです。目次———————————
1. 宗教改革以前の讃美歌
2. 最も古いイースターの讃美歌は12世紀までさかのぼる
3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。
4. 16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。
5. 最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降
6. ルターによる讃美歌
7. 前の時代からの遺産を継承発展する時期から創作へ1.宗教改革以前の讃美歌 ————————————–
初期のキリスト教会では、イエスが弟子たちと賛美の歌を歌っていた。(ユダヤ教の)
初期のカトリック教会では会衆が礼拝中に歌に直接参加するのが習慣でした。その時、頌栄、アーメン、キリエ、そして讃美歌を歌っていました。
6世紀の終わりと7世紀の初めにはアンブロシウスによって会衆が参加するようになっていた。
しかし、グレゴリウスの改革によって、讃美歌は会衆を代表して司祭が歌うようになりました。 (僧侶がお経を読むように)
ところが、ドイツでは、この改革は完全には実行されませんでした。彼らがキリエとアレルヤを歌う時、ドイツ語の詩を入れる習慣になりました。
ドイツの讃美歌は礼拝奉仕の役割を獲得しました。こうして教会で歌われるすべての
讃美歌の終わりのオブリガートを形成しました。これらの曲は「キリエの曲(Kirleisen)」
と呼ばれていました。
2.最も古いイースター讃美歌は12世紀までさかのぼります。 ————————————–
「キリストは死からよみがえられた ハレルヤ
慰められるキリストを われらはみな喜びまつる キリエライス」3.14世紀と15世紀にそのような広まりを見せた神秘劇も、ドイツの讃美歌の受容を助けた。 ——————————-
ラテン語とドイツ語が混在するクリスマスのゆりかごの歌には、非常に珍しい
魅力があります。それらの詩は、想像できる最も原始的な種類のものです。
言葉は、音や揺れるリズムよりも感覚的にまとめられています。それでも、
彼らを取り巻く明るいクリスマスの魅力は、消えてしまった世代と同じように私たちに
影響を与えます。
バッハのオルガンコラールには、これらの古いクリスマスソングが2つあります。
dulci jubiloでは、
Nun singet und seidfroh。
Unsers Herzens Wonne
Liegt in praesepio、
Und leuchtet als die Sonne
Matris ingremio。
Alpha et O、Alpha et O.(V、Nr。35。)Puer natus in Bethlehem、 In Bethlehem、 Unde gaudet Jerusalem、 Jerusalem。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Ein Kind geborn zu Bethlehem、 Zu Bethlehem、 Des freuetsichエルサレム。 ハレルヤ、ハレルヤ。 Cognovit bos et asinus、 Asinus、 Quod Puer erat Dominus、 Dominus。 ハレウジャ、ハレルヤ。 Das Ochslein und das Eselein、 Eselein、 Erkannten Gott den Herren sein、ハレルヤ、ハレルヤ。 (V46)
やがて、ラテン語の讃美歌はドイツ語に翻訳され神聖な詩として受け入れられた。クレドー信仰告白箇条、十戒、十字架上の七つの言葉、また様々な詩篇も讃美歌の歌詞に組み込まれました。4.16世紀の改革は教会の扉をドイツの詩に開放した。 ————————————–
14世紀と15世紀のラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片は新しい教会のために修正し、変更し、改善し、新しい讃美歌に作り直された。
5.最初のドイツの讃美歌集 宗教改革以降 ————————————–
1524年に
新しい讃美歌(Erfurt Enchiridion)が出版された。その26曲の中には、詩篇の8つのドイツ語訳がある。これには、詩篇130「深い淵からあなたを呼ぶ」(BWV131)など一連の讃美歌、
2つのイースター讃美歌が含まれています。「キリストは死の縄目につかれた」(BWV4)と
「死に勝利した我らの救い主イエスキリスト」、10戒の古い讃美歌、Paul Speratusによる3つ
の讃美歌、有名な「救いはわれらに来たり)」など。
A 中世の聖歌
(1)イースターの讃美歌 「キリストはよみがえられた」
キリストは死の縄目につき(カンタータBWV 4)
ラテン語の讃美歌、詩篇、典礼の聖歌、聖書の断片。
(2)クリスマス
dulci jubilo(No.35)、ベツレヘムのプエルナトゥス(V、No.46)。
(3)「中世の曲-言い換え」
(十字架上の7つの言葉 V9)
ダイがGebot zehnダイheilgenをシンド(V、12号。、VI、番号19および20)。
ファーターアンサーIM Himmelreich(V、番号47及び48; VII、番号52および53) 。
WIR glauben全てeinenゴット(VII、番号60、61及び62)。
(4)讃美歌は、ラテン語から翻訳。
「われらキリストを褒めたたえ」、「キリストはよみがえられた」、「われら主なる神をほめ」、「来ませ 聖霊よ」、「今こそ来ませ異邦人の救い主」6.ルターによる讃美歌 ————————————–
(1)翻訳。
イエス・キリストわれらの救い主なる神 情熱の讃美歌。VI30~33
クリスマスの讃美歌
「イエスキリストあなたを賛美」
(2)聖書を歌詞とした
「深い淵から私はあなたを呼ぶ」詩編130:(BWV 38)
「神はわがやぐら」詩篇46. (BWV 80)
「私は安らかに喜びを持ってかしこに行こう」シメオンの歌・ルカ2:29)
(3)オリジナル讃美歌
「われらの主キリストヨルダンから」(カンタータBWV 7 )
「天の高みから」「天から御使来る」7.前の時代からの遺産を継承発展する時期から ————————————–
讃美歌を創造的に作るようになった。 16世紀末から
ドイツの詩全体が宗教的な道へと向かった。というのは
ドイツは30年戦争で、国が荒廃し、破滅の危機に瀕した。生き残ったほのは宗教であり、そのだった。詩はその懐に避難した。ドイツには、その切実な必要性から、世界で比較すものがないほどの宗教的な詩を生み出した、「詩篇の素晴らしささえ青ざめるほどです。」とシュヴァイツツアーは言っている。この時代の讃美歌は時代を写す鏡といえる。
1613年、疫病で荒廃したとき、ドイツの東部でV.ヘルベルガーは、「ヴァレットウィルイッヒディルゲベン、デュアルジファルシェウェルト」(VII50,51)
を歌います。
M.リンカート(1586-1649)「今こそ、みな神に感謝しよう(nun danket alle Gott)」(VII43)は、1648年に平和の結論を鳴らしている間に
作曲されました。
ヨハン・リスト(1607-1667)は、658曲を作曲しました。他に讃美歌集で生き残った
パウル・フレミング(1609-1640)、
ヨハン・ヘルマン(1585-1647)、
およびシモン・ダッハ(1605-1659)がいます。また、これらの讃美歌作家の中には、フィリップ・ニコライ(1556-1698)と
ヨハン・フランク(1618-1677)の2人の神秘家がいた。
バッハは、ニコライの「明けの明星のいかに美しいかな」の歌詞でカンタータ(BWV 1)を書き、もう1つは彼の「起きよと呼ぶ声」の歌詞でBWV 140を書いた。
みまた、フランクの「イエス、わが喜び」の歌詞でモテットと2つのオルガンコラール(V31,V29)を作曲した。同じ詩人の「おお愛する魂よ自分を飾れ」(BWV180)を、
またコラール幻想曲(VII49)をつくった。
しかし、感情の主観性と教訓的な視点が宗教詩に侵入し、それだけで教会の礼拝のための真の会衆の歌を作り出してきた素朴で単純な客観性を奪います。感情と言葉遣いが微細になって衰退期が始まっているとき、パウル・ゲルハルト(1607-1676)があらわれた。8.ゲルハルトからバッハへ ————————————–
ゲルハルトは、この衰退を確認するかのように現れた。彼はルター派正統派の信者であり、驚くべき速さで
真の改革をもたらした。
バッハはこのゲルハルトを崇拝者し、彼のカンタータの詩を繰り返し採用している。
マタイ受難曲(BWV 244)では12曲のコラールの中で、「血潮滴る主のみかしら」の
曲を5曲(15,17,44,52,62)で使用していることからわかります。
敬虔主義は確かにいくつかの精神的な詩を生み出しました。
しかし、バッハにとって、それほど重要ではありません。バッハは、讃美歌の本の中から
過去の豊富な歌詞を用いた。
彼が自由に使えた資料は、小さなエアフルト1524年の讃美歌集から26曲用いた。
バブストの讃美歌集は初版では101曲、ベルリンでほぼ1世紀にわたって使用されていたクリューガー本は、
初版(1640)では250曲、第44版(1736)では1300曲、リューネブルク(1686)に2000曲と増加している。
ライプツィヒで保存されている目録から、ライプツイヒ讃美歌集の8巻がバッハの所有物であったことが
わかります。しかし、18世紀の後半には、もうバッハのカンタータと、その熱気は存在しませんでした。歌詞を持ったさんびかは「讃美歌」とした。
@chap blog 20220209 jy
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宗教改革記念 Mルター
M.ルター 宗教改革記念
1517年 10月31日 M.ルターは、ローマ教会に対して95項目の提題をヴィツッテンベルク城教会の入り口に貼りつけた。中には献金をたくさんしたら天国に行けると言う贖宥状に何の根拠があるのかと言うような問題を提起した。これに対してローマ教会は1521年ルターを破門した。
ルターを支持する領主たちの助けを得て、改革運動は全国に広がった。
M.ルターの著作を読んだのは大学闘争でバリケード封鎖をした神学館の自治会図書室、わたしもその仲間に入れてもらって、図書室を居場所にして、本を読み始めた時だった。農民戦争について述べた箇所で、ルターの宗教改革を激しく妨害したミュンツアーたち。彼らを、殺せ、突き刺せ、焼き尽くせと、学生運動のアジテーションさながらに、ルターは激しく言っていた。
最近、バッハのカンタータの歌詞に、同じような言葉が出てきて、2度びっくりした。
それから200年過ぎたバッハの時代は、ルターは忘られて、形だけのルター正統派とそこから自由になりたい人たちが、せめぎ合っていたように、色褪せていました。バッハは独学で神学を学び、とりわけルターの真髄を汲み取って、音楽に表していました。そういう意味で、バッハの音楽・カンタータは100%強烈なメッセージ音楽といえます。宗教改革記念の讃美歌は、その意味で改革精神を呼び戻していたのだと思われます。写真
#ルター#改革#バッハ
95箇条の提題が刻まれた鉄の扉
ヴィッテンベルク城
この付属教会にあたる
ルターの館
ここで夕食後のたわいない話のなかに真実があるという卓上語録といえばいかめしいが自由な懇談の中で語られたメモが出版されている。
博物館 ここで親しげに話しかけるドイツ人の家族がいて、彼はルターが愛用していた聖書カバーには日本の木綿が使われていることを私に知らせたかったのだが、こんなところで「木綿」のドイツ語が出てきては、ちょっと無理だったのでメモ帳に単語を書いてもらって、分かった時は元の木阿弥でした。 -
ミニチャペルの履歴
ミニチャペルの履歴 ミニチャペルの履歴
№ タイトル 日 付 視聴回数
8.新規ホームページができたので、他の二つを廃棄しようとおもっていたが、それぞれに特徴があり、捨て難く三つのサイトを相互に活用することにした。
a.新ワードプレスを「minichap.com」としてチャペルアワーを構成している。
b.ワードプレスβ版を「blog 草の花」として残した。
c.旧「minichapel」 homopqgebuilderはわたしの書庫として残した.
7.旧β版「ワードプレス」(Cocoon)を入れて再利用、ブログ用に使う。 202307256.ホームページを新規 wordpress Twentyseventeen に取り組み
2022年8月5日からはじめ翌年6月5日完成
5.福岡市南区大橋に転居、翌2019年1月より「ミニチャペル」を再生。
スケッチ、カンタータ集などを更新、横巾750pxに拡大 27.665 20220602
4.スマートフォン対応を考慮してリニューアル ———– 22.146 20220204
3.新規ドメイン minichapel.jp 1Gから10Gに 容量を拡大 20.161- 20211008
2.アクセス 更新20200420 11.000 アクセス。
大学に勤務した時代、アクセス回数 5554 回で休眠した。12.810 202006241980年代 9.000 アクセス —————————————– 20200104
1.春日東教会時代「ミニチャペルパルーシア」開設 1980年代 9.000–20200104
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Bach就任300年
Bach就任300年 JSバッハ トマス教会カントル就任300年記念行事
Bach for Future(未来へ向かうバッハ)というテーマのもと、6月8日、1723年就任にちなみ17時23分前夜祭を開演、18日まで、世界から40の団体が集まり 150回のコンサートが開かれた。
日頃、Youtubでお目にかかっいる団体と指揮者と合唱団、ソリストが出演していた。
YouTubeを通して見るJSバッハとトマナコア、またいく人かの愛好者たちについて、わたしはたった5年ばかりなのに、驚くべき成長、変革を感じてきた。その一番は本拠地のトマナコアであり、スイスのバッハ財団は急速に成長した。オランダの「オールオブバッハ」の100年は驚嘆する。新旧交代がうまくできてよかった。CDを通して出会ったヘルムート・リリンクはお疲れ様の引退をした。そして鈴木雅明率いる日本バッハコレギウムは跡継ぎがついている。1.スイス・ガレンのルツさんのバッハ財団、20年というから、わたしはyoutubeで見るようになった5年前くらいから急速に成長、洗練されたと驚くとともに古参になって、逆に伸びしろがなくなった寂しさを感じている。
2.この間に、トマーナコア(トマス教会少年合唱団)はG.C.ビラーさんが亡くなって、ライゼさんが就任してあっという間に別の特色を出して「成功」している。
ビラーさんは生粋のトマーナで、戦争、ナチズム、東ドイツの悪夢の時代から回復する使命をもって、彼が受けたトマーナの純粋な生命を蘇えらせようとするかのように、力を尽くしていたことを強く感じる人でした。
ナチズムの時代の指揮者ギュンター ラミンの演奏と説明の中に、トマーナの少年たちを郊外施設に退避させ、ヒトラーユーゲントに連れて行かれないような抵抗をした(成功したか否かは覚えてないが)というエピソードを読んでため息をついた。また、トマーナコアが、1980年代に日本公演で福岡にも来た時、福岡の少年が(その中に木の脇道元さんも)参加したことで記憶に残っている、その時の指揮者ヨアヒム ロッチェが東ドイツ崩壊に伴う、密告者告発の「シュタージ」で逮捕されたというニュースを、天神の紀伊國屋書店で立ち読みした音楽雑誌の中に見つけた時、ショックだった。その後任であっただけにビラーさんの純粋な生き様に惹かれたが、もっと活躍できる年齢(私より若干年下)だっただけに残念です。Youtubeで演奏録を視聴できるのはありがたいです。3.ライゼさんはその後任にあたる。スイス生れ、カトリックで、教会音楽分野で少年合唱団の指揮者、舞台音楽等幅広い研鑽を積んだ実力者で、今回の300年行事の責任を負った。コロナ禍が長引く中、会衆がいない演奏録画放映が続いた。自ずと少人数で間隔をとった演奏。また世界各地から大勢参加したweb合唱もコロナ禍ならではのことで、若い人が参加しやすく、新しい試みに意欲的。
4.次に、2013年にバッハの全曲演奏「オール オブ バッハ」を目指して100年の歴史をもつオランダ・バッハ協会の「オール オブ バッハ」、その中に2018年から加わり、指揮者を務めている佐藤俊介の活躍とみなさんの成長と老若の入れ替わりがすごい。(2019年来日公演) 市民社会が特徴なオランダの人たちらしく、「みんなで」作り上げている感が伝わって、その意味で好感が持てる。
5.隠退したヘルムート.リリンク。
福岡バッハコレギウムにいた10数年、リーダーの武田又彦先生にリリンクの名前を聞いて「カンタータ全集」CDを聴くようになった。武田先生は、リリンクの日本でのセミナーで、指揮法を学んで、セミナーの最後に模擬演奏の指揮者に選ばれたそうで、私は好感を持っていた。ところが、youtubeでリリンクの演奏を見ていた人が「嫌だ、ミリタリー音楽みたい」と書き付けているのをみて、びっくりした。マタイ受難曲の冒頭合唱で(後に、ベートーヴェンがバッハにヒントを得て「運命」(第5番)の冒頭に用いたといわれる「デインパニの連打」を、「軍隊音楽 嫌い」と書き込んだ評に衝撃を受けた。
マタイ受難曲は神学生の最終年度に神戸栄光教会のクリスマスに清水さん率い聖歌隊に入れてもらって歌った。バッハの初体験でした。楽譜にカタカナで「イザウタエ」というように書き込んであった。その「命令形」に、私は遭遇したのです。はたと考えて、「さあ歌おう」(lets sing)みたいな使役動詞を使った「私をして歌わせたまえ」みたいな感じではどうだろうか。・・・こんなふうに考えさせられた、今もそう考えている一件でした。6.最後に、日本バッハ・コレギウム(BCJ)は、300年記念のフィナーレに選ばれて、ロ短調ミサを演奏。鈴木雅明先生のライフワークの頂点であり、日本のバッハ運動と芸大に設置されたバイブオルガン学科は新しい使命に向かっていく。喜びに満ちた美しいひとときでした。コロナ禍の長いトンネルからいきなり花が咲いたような10日間だったですね。おめでとうございます。
同記念行事は7月24日配信参考
「音楽な人たち」